15~6年まえ、LAに長くいたことがあります。
当然ながら日本のように治安はよくありませんでした。
大袈裟かもしれないのですが、死を考えない日は1日もなかったのです。
毎日、"今日こそ黒人に殺されるぞ"と観念していました。
実際、ダウンタウンのドラッグストアにいたときなど、映画の『ニュー・ジャック・シティ』に出てきそうな黒人数人がピストル片手に強盗しに来たし、友人の母親などガーディナの街で中指をナイフで切りとられて指輪を盗まれました。
警察は一言、「生きててよかったじゃん」というくらいのもの、懸念は存外はずれていないのです。
ビバリーヒルズやメルローズなどで白人を見ていると映画のようにまばゆいばかりですが、ハリウッドの紫街で黒人に囲まれると、こちらが世界的スターでもないかぎり死にたくなります。
まさに光と闇。
"人種のるつぼ"・・・その失敗例が当時のLAにちがいないでしょう。
黒と白は解りあうことはない、なんていえば、「浅薄すぎる偏見だ」と反駁されるでしょうが、私は白人と日本人以外の人種に偏見を持っているのだから仕方がありません。
いわんや白人は白人種以外は信じていないでしょう。
それは好悪だけの問題ではなしに、恐怖心から異人種に対し銃口にも似た険しい視線をむけるのです。
いや、人種の問題だけではないのかもしれません。
「この世のだれもが自分とは異なる人種である」。
そんな対人関係の恐怖が『ブレックファスト・クラブ』に登場する5人の傷ついた視線にも見えかくれしています。
とは申せ、"いま世界じゅうの俳優でだれが好きか?"と訊かれれば、私は躊躇わずにプリンスとエディ・マーフィの2人を挙げます。
『ドゥ・ザ・ライト・シング』(スパイク・リー監督)で、こんな場面がありました。
「マイケル・ジャクソンやカール・ルイスは好きだろ?」黒人がイタリア系白人にいいます。
「なのになぜ、あんたらはおれたちを馬鹿にする?」
「そりゃマイケルとかは好きさ」と白人。
「やつらは黒人を超えた黒人だからね」
白人に愛されるため、私は"日本人を超えた日本人"になろう・・・。
映画でそれを学んだのです。
『ブレックファスト・クラブ』のストーリーはとても単純です。
5人はそれぞれ学校で問題を起こした生徒であり、ある日、土曜日の朝早くに教室で補習をさせられ作文を書かされます。
その課題は、「自分とは何か?」。
ストーリーは補習の1日を描いたもので、5人はたがいに残り4人と傷つけあい喧嘩しあい解りあい恋をしあうのです。
かれらは自分たちの家庭の悩み、心の病いなどを涙ながらに吐露しあいます。
「あたしたちって月曜日も友だちかしら?」と最後にモリィ・リングウォルドはいいます。
「いまは、ぐうぜん知りあって喋ってるけど・・・」
「月曜はちがう」
4人は首をふります。
「おたがい、『やあ!』って階段で挨拶するだけさ」
長い1日で5人がいかに人生開眼し、「自分とは何か?」という大人たちの問いにどんな結論を出すかは観てのお愉しみですが、たまらなく切実な映画でした。
老いゆく自分が厭になって死にたくなるときありますよね。
できれば13、4歳の青くさい果実の匂いがする日々にもどりたい・・・
そんな希いも映画なら叶えてくれます。
『小さな恋のメロディ』、『マイ・ガール』を観ればよいし、ジョン・ヒューズ4部作など最適。
『すてきな片想い』、『ブレックファスト・クラブ』、『プリティ・イン・ピンク/恋人たちの街角』、『恋しくて』は、すべて傑作です。
『恋しくて』は40回くらい観たでしょうか。
メアリー・スチュアート・マスターソンの魅力炸裂である(あの"涙、涙、涙"の超感動ラストシーンに涙して、「ああ、自殺するのは今夜はやめよう」と何度思ったか知れません。
『プリティ・イン・ピンク/恋人たちの街角』、『すてきな片想い』はモリィ・リングウォルドの表情が出色。
4部作はどれも高校を卒業してゆく若者たちの一瞬の燦きを映した青春ドラマですが、『ブレックファスト・クラブ』には暗い影が漂っています。
アメリカを蝕むあらゆる病理がモリィ・リングウォルド、エミリオ・エステベスら若者たちの顔からうかびあがってきます。
だいたい白人のハイスクール映画は能天気でいいですよね。
日本みたいに受験という変な重力がないから若者たちの顔は生き生きしているし、LAの青空や少女たちの金髪の靡きが画像をとてもまばゆいものにしています。
しかし、『ブレックファスト・クラブ』には、そんな能天気さはありません。
5人の生徒はだれもが傷ついた問題児なのです。